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歴史紹介(人物)

人物紹介

【 用語一覧 】

  • 藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)
  • 服部半蔵(はっとりはんぞう)
  • 百地丹波守三太夫(ももちたんばのかみさんだゆう)
  • 百地砦(ももちとりで)
  • 上野ノ左(うえののひだり)
  • 新堂ノ小太郎(しんどうのこたろう)
  • 楯岡ノ道順(たておかのどうじゅん)
  • 音羽ノ城戸(おとわのきど)
  • 野村ノ大炊孫太夫(のむらのおおいまごだゆう)
  • 下柘植ノ木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)
  • 山田ノ八郎右衛門(やまだのはちえもん)
  • 神戸ノ小南(かんべのこなん)
  • 高山ノ太郎四郎、太郎左衛門(たかやまのたろうしろう、たろうざえもん)
  • 石川ノ五右衛門(いしかわのごえもん)
  • 冨治林保武(ふじばやしやすたけ)
  • 伊勢三郎義盛(いせさぶろうよしもり)
  • 大杣役小角(おおぞまえんのおづぬ)

藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)

<伊賀市東湯舟(旧阿山町)>

三大上忍の一人と呼ばれ、北伊賀衆の頭領であった。

「冨治林家由緒書」によると、長門守の高祖は源頼朝の重臣泉親衡で、信州戸隠山に挙兵するが建保元年(1213)に北条氏に敗れ湯舟に居城を築いたと伝わる。

また、藤林家は六角義賢(承禎)と深く関係しており「萬川集海」には、承禎が近江沢山城攻めの際に伊賀衆の助力を頼み、楯岡道順以下11人の忍びが落城させた功績が記されている。

戒名が似ていることから、喰代の百地丹波と東湯舟の藤林長門守が同一人物だという説があるがそれは小説の世界である。長門守が上忍といわれる理由は、子孫保武が「萬川集海」を変纂したことと、道順以下11人の優秀な忍者を使っていたからであろう。

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服部半蔵(はっとりはんぞう)

<伊賀市予野(旧上野市)>

三大上忍の一人。

服部半蔵(1542-96)は伊賀忍者の代名詞であるが、半蔵正成は保長の子で、早くから伊賀を出て徳川家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名である。

「伊賀者大由緒記」によると天正10年(1582)の神君伊賀越では、半蔵正成は伊賀者200人と共に家康を助けたとある。その後、八千石の旗本となり与力30騎、伊賀同心200人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれた。

「寛政重修譜家緒」に「三阿国西郡宇土城夜討の時正成16才にして伊賀の忍びの者6、70人を率い場内に忍び込み戦功を励ます」とある。

忍術秘伝書「忍秘伝」は初代服部半蔵が保長が著して、正成に授けたと伝わる。

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百地丹波守三太夫(ももちたんばのかみさんだゆう)

<名張市竜口>

「賊禁秘誠談」によると、百地丹波守三太夫は、天下の大泥棒石川五右衛門の師匠で有名であったが三太夫の名は史実的には見出せない。

「伊乱記」に天正伊賀乱に参加した百地は、百地新之丞、同太郎左衛門、食喰代百地丹波となっている。

しかし三太夫がまったくの創作だといえない説もある。

竜口が伊賀猿楽の本拠地であり、白山神社の棟札には十人の太夫衆の名が残り“太夫”の名が多かったからだ。

竜口は伊賀と大和があり、双方一族共黒田の悪党で有名な大江一族であり、戦国期に有力な地侍であった百地氏が竜口を南北にまたぐ城山に砦を構え、南伊賀一帯を支配していた。

現在は伊賀まちかど博物館に登録され、予約を入れれば見学できる。

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百地砦(ももちとりで)

<伊賀市喰代(旧上野市)>

三大上忍の一人。

百地丹波の城跡で地元で百地砦と呼ぶ。永保寺裏にある青雲寺に隣接しており、青雲寺がある所に館跡と考えられる。忍者が修行した丸形池と呼ばれる堀跡も残り、喰代地域の城としては大きく要害堅固だった。

天文13年(1544年)の「木津家宮座文書」に「喰代もも地蔵」とあり、天文期にはすでに有力な豪族であった。天正伊賀乱の最後の決戦地、名張柏原代で南伊賀衆と戦ったのは、喰代百地氏の先祖が大江氏であったからだろう。

注記する事は、喰代と名張竜口の百地は同一人物ではない。

喰代百地氏の家来の子孫には、藤堂藩伊賀者の田中安之丞や長井又左衛門の名があり、有力な上忍には間違いないであろう。

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上野ノ左(うえののひだり)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

上野は室町期より名があり、菊岡如幻(きくおかにょげん)著『伊賀国忍術秘法』の11人の名簿には「上野二左兵衛,高場氏、是に子細在り」とある。

天正伊賀乱では比自山籠城勢の中に上野村の高場氏(馬場氏と書く写本もある)の名があり、上野村で上野氏と並ぶ土豪であったことがわかる。

さらに『伊乱記』によると伊賀の土豪達が評定して仁木氏を近江の国より迎え国主にして上野村平楽寺の西側に殿館を造ったとある。

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新堂ノ小太郎(しんどうのこたろう)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

妹は金藤。『伊乱記』にも新堂の金子太郎という名がある。

『万川集海(陰忍篇)』によると上野佐那具(さなぐ)の城に忍び込んだ時見つかったので逃げる途中に石を井戸に投げ込み敵に井戸に落ちたと思わせその隙に逃げ込んだ話。

また病人に変装して播磨のアタラの城に侵入した話がある。

これらの話より伊賀は土豪同士も忍者を使い争っていた事や他に雇われて仕事をしていた事がわかる。

新堂の神明神社所蔵の大般若経は天正伊賀乱の際に灰燼の中から取りだしたと伝わり焼けた跡が残っている。

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楯岡ノ道順(たておかのどうじゅん)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人で特に優れていた。

姓は伊賀崎で『伊賀付差出帳』にも名がある。

『万川集海(問答篇)』に「問曰く道順が一流四十八流二成タル由来如何」とある。

さらに近江六角承禎の家臣百々(どど)が裏切り、沢山(彦根市)の城に立て籠もった。

そこで道順が雇われ伊賀者44人甲賀者4人都合48人で攻め、途中湯船の宮杉いう陰陽師(おんみょうじ)に占ってもらうと「沢山二百々ノナル雷モイカサキ入レバ落ニケル哉」という歌を送られ喜んだという。

妖(ばけもの)の術を使い沢山城に忍び城内に火を放ち落城させた。

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音羽ノ城戸(おとわのきど)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

鉄砲が得意であり、名前は城戸弥兵衛(きどやへい)と伝わり、「伊乱記」によると天正伊賀乱がほぼ終結して織田信長が敢国神社の辺りに休息している時に、土橋村の原田杢と印代(いじろ)村の印代判官と音羽村住の城戸が秘かに忍び寄り、森より狙いを定め大鉄砲にて信長公を狙った。

しかし信長は運が強く3人とも打ち損じ、家来達は直ぐ追ったが3人は飛ぶ鳥のように逃げ去ったとある。

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野村ノ大炊孫太夫(のむらのおおいまごだゆう)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

活躍としては孫太夫がある家に忍び込んだ時に気づいた主人に槍で突かれる。

床下にいた孫太夫は相手に聞こえるよう“家の者が起きたらしいので引き上げよう”と言い更に“うん、そうしょう”と声を変えて答えたので、主人は他にも仲間がいると思いあわてて外へ飛び出した。

そしてこの隙に逆に家の奥に忍び込んだという。野村の位置は上柘植の西にあり集落は村南部を横断する大和街道に沿ってある。

なお野村は文豪横光利一が幼少の頃住んでいた地でもある。

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下柘植ノ木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の2人。

木猿は木申とも書く。

立川文庫『猿飛佐助』や白土三平『サスケ』のモデル。

『万川集海一歩法四ヶ条』に「浮足トハ木猿伝ノ枝葉ノ意デアリ口伝アリ」と名が見える。

小猿は兄弟あるいは親子か。

同じく(利便地十二ヶ条)と(見敵術四ヶ条)には、伊勢の田倉城へ忍び込む時に城内に入り放火して落城させた話と犬の吠える声を真似て敵の怒りを誘いその怒鳴り声で相手の寝ている場所を確かめ討ち取ったとある。下柘植には平宗清を祖とする日置(へき)氏一族が支配していたと伝える。

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山田ノ八郎右衛門(やまだのはちえもん)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

姓は瀬登(せと)。

「隠忍篇」に陰陽両術を使った例として八右衛門がある男と敢国神社の祭礼の日に男の腰の刀を盗み取るという賭けをした。その男は用心し八右衛門を見張っていたが八右衛門は岩の上に腰をかけ一休みしていたので、安心し雑踏の中を参拝を済ませた。

しかし帯刀の中身はすでに抜き取られていた。八右衛門は姥に変装し賽銭箱の陰から男の刀を抜き取ったのだ。岩上で休息していたのは替え玉で、八右衛門は変装の名人でもあった。 この術を双忍(そうにん)の術と呼ぶ『万川集海』。

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神戸ノ小南(かんべのこなん)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人の1人。

南伊賀では唯一の忍者であった。

文献としては菊岡如幻の『伊賀国忍術秘伝』、明和年間の岸勝明の『伊賀考』にも神戸の小南の名があるが、活躍の記録としては文献にその名を探すことが出来ない。

なお神戸と言う場所『伊乱記』によると戦国時代末に伊賀の土豪達が「漸く神戸の郷、天童山に集まり、各々評定して和談を調へ」とある。

上野の平楽寺とならび伊賀衆達の評定所の一つが神戸の小南がいたのも納得がいく。

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高山ノ太郎四郎、太郎左衛門(たかやまのたろうしろう、たろうざえもん)

『万川集海』に列挙された11人の忍術名人達。

兄弟か親子か。高山には黒田の悪党共に活動した高山十郎保光がおり、高山村土豪の島地氏は服部平内左衛門家長(はっとりへいないざえもんいえなが)の子孫と称し惣領家を高山としたが、天正伊賀乱で高山家は滅亡している。

高山を甲山(こうざん)と読めば甲山太郎四郎、同太郎左衛門とある『伊賀国忍術秘法』。それ故に甲賀五十三家の高山源太左衛門かとも考えられる。

『万川集海(沢村本)』には「甲山ノ笹蟹(ささがに)太郎四郎、同太郎左衛門」とあり、甲山を「かぶとやま」と読めば鹿伏兎山となり伊賀町東の山である。

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石川ノ五右衛門(いしかわのごえもん)

「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」という辞世の和歌を残し、大盗賊として江戸中期から浄瑠璃や歌舞伎の立て役者になった石川五右衛門が文禄3年(1594)に一族と一味が京都三條河原町で釜煎りの極刑にされたのは歴史的事実であった『山科言経卿記』(やましなげんきょうき)。

五右衛門が忍者という説は、寛文7年(1667)に東武残光の『賊禁秘誠談』(ぞくきんひせいだん)の中に、伊賀国石川村に文吾という者が上忍百地三太夫の弟子となり忍術修行をしていたが、三太夫の本妻と密通し妾の式部を井戸に投げ殺し金を奪ったので破門され、京都に逃げ石川五右衛門と名のり大盗賊になる。

後に太閤秀吉の命まで狙ったが千鳥の香炉がチリリと泣いたため見つかり釜煎りにされた。

この話は喰代式部伝説や伊賀竜口百地家のおかん井戸の由来を石川五右衛門に結びつけている。

『万川集海』には忍び込む術が書かれ、忍術は使い方を誤れば盗賊と同じと戒めてある。

それ故に忍術を知っていた五右衛門が大盗賊になれたのも納得出来る。

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冨治林保武(ふじばやしやすたけ)

『万川集海』の著者藤林佐武次保武は、三代上忍の一人である藤林長門の孫にあたる。

『冨治林家由緒書』によると別名伝五郎、又の名を保道といい、元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召され、高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林長門の姓を遠慮して冨治林と改めたと伝えている。

東湯船から上野万町に移り住んだ。

甲賀本『万川集海』は保武と保道あるいは保高を何故か書き誤っている。

第4世冨治林正直は『三国地誌』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当した。

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伊勢三郎義盛(いせさぶろうよしもり)

『万川集海』の著者藤林佐武次保武は、三代上忍の一人である藤林長門の孫にあたる。

『冨治林家由緒書』によると別名伝五郎、又の名を保道といい、元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召され、高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林長門の姓を遠慮して冨治林と改めたと伝えている。

東湯船から上野万町に移り住んだ。

甲賀本『万川集海』は保武と保道あるいは保高を何故か書き誤っている。

第4世冨治林正直は『三国地誌』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当した。

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大杣役小角(おおぞまえんのおづぬ)

修験者の祖、役小角(えんのおづぬ)の像がある。

伊賀町旗山にはかつて役行者像大小2体が祀られていて、修験場であった。2体の役行者像は山を削る際に小さい行者像が某場所に移され、大きい行者像は岡鼻の大杣湖の近くに移された。

毎年9月7日に岡鼻区では役小角祭がある。

伊賀地域には行者像が多く、寺院も山岳密教であった真言宗、天台宗が多い。

修験者達が役小角を祖師として仰いだ忍者が修験道より派生したと説は近年有力である。

ただ同じ場所に祀ってあった2体の役小角像は一緒に祀って欲しいと願う。

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